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ミッドタウンを眺めながら思うこと

ミッドタウン外苑東通りの人通りが変わったなって思います。今日、乃木坂にあるスタバの窓際2階席でお茶をしながら人の流れを見ながら思ったこと。

一番初めにこの場所から景色を眺めていたのが大学院一年の夏で、あれからもう3年近く。そのときはいまよりも幾分か静かだったように思います。
南青山よりもさらに奥に位置する乃木坂は都会の真ん中に位置しているその割りに、静かで落ち着いた上品な街という印象がありました。
一つの再開発が街の流れを変えたということだと思います。ま、だから再開発っていうのですが。こういう事例を見ると、建築を通じて街に仕掛けを施すことの面白さを再確認します。楽しい仕掛けです。

ただ、こういった再開発というのは民間の事業として行われていて、だからこそ開発地区の単位面積当たりの収益力を最大化させるという目的も帯びています。というよりも、ディベロッパーにしてみればそれが全てです。自社が管理している面積でどれだけ多くのテナント料を取れるかしかないわけですから。
だから自社の持っている床にブランドイメージを植えつけて高いテナント料が取れる仕組みを作るわけです。

薄利多売のモデルだといかに固定費を減らせるかというところが収益を上げるには重要ですが、利益率の高い業種は固定費がある程度高くても売上げでペイできる。
だからだと思うのですが、ミッドタウンだけでなく六本木ヒルズでも薄利多売型のビジネスモデルではなく利益の厚い店舗をテナントとして入っているように感じられます。
リッツカールトンなんてその代表的存在で正規料金でとまると最も安くて一泊6万円台。1㎡あたりの収益で考えると非常に効率が良い。
さらに、そういった存在自体がブランドになる企業をテナントとして集積させることで、ブランドの相乗効果を生み出しているように感じます。好循環を生み出す再開発の常套手段。

要するに何がいいたいかというと、再開発によって楽しくなるのはある程度お金のある人だってことであって、ミッドタウンから数百メートル南へ下ったドンキホーテ六本木店とは客層が違うということです。

ネットカフェに寝泊りする若者だったりと海外だけでなく国内でも格差が問題となっていて、貧困とは構造的暴力である、という言葉がありますが、高級なお店で消費を謳歌している人を見るとこういった社会的構造の反対側はどうなっているのだろうとチラッと感じさせられます。
別に再開発が格差を助長しているわけではないんですけどね。

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論語

今の自分に必要なことは人間力向上ということで、今日渋谷のブックファーストにて論語の解説書を買ってきました。

正直、自分が論語を手に取るなんて少し前までの自分には考えられないことです。高校時代は古典嫌い、漢文嫌いで薦められても全く興味が持てなかったのに。
最近、人が薦めるものの多くはやっぱり薦められるだけのものがあるのだなぁと思うようになりました。

論語というのは孔子の死後に弟子たちが孔子とのやり取りを書物におさめたもので、今から2200年くらい昔のものなんですが、それでも今の時代にも通じるものを感じます。
例えば"父母は唯其の病を之れ憂う"というものがあり、この一節では父母は何にもましてただただ子供の病気を気にかけるものであり、だからこそ健康でいることが孝行である、ということを説いています。
これを読んで、そういえば実家に帰るたびに俺が痩せてたように見えるとそのことを心配をしていたな、なんてことを思い出したりしました。
きっと夜中まで働いている今の姿を見せたら本当に心配するんだろうなと。

自分なりの哲学だったりというのは、本来は自分の日々の体験を軸に醸成されるものだと思うのですが、まだまだ自分の哲学が練れていなかったり、哲学の素のようなものがあったとしてもなかなか言葉に落ちてこないようなことがあると思います。
そういった状況の中で、すでにある考え方を勉強することで自分の中に考え方の素を植えつけることができたり、漠然とした想いをはっきりとさせたりすることができると思います。
覚えてしまうほど何度も読んで、自分の言葉としていけたらと思います。

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仕事を始めて1年たって…

地に足がつくのはいいけど、地に足が着くのと自分を小さく規定することとは違うと思います。
人間は自分や周囲の人間が自分に対してふさわしいと思う自分像を実現するように行動する節(少なくとも自分には)あると思います。だから自分に対する評価はとても大切なものだと思います。

働くことで現実的な自分の力だったり立ち居地を心得ることになったんだけど、だからといって恐縮して自分を小さくみなす必要は全くなく、もっと自分の可能性だったり存在だったりを有益なものとして信じてよいと思うわけです。

いや、働くようになったかということではなく、会社で働く立場になったことで与えられる側になって自己表現をしていないからなのかもしれないと思った。熱を発していない。
閉じこもっていてもいろいろと届いてくる環境にいることだったり、指導を受ける側の環境であることだったりとそういったことが積み重なっていって、エネルギーのベクトルが外向きではなく内向きになってるような気がします。

簡単に言うと、今の自分はスケール小さいなって思ったわけですが。今の自分を学生時代の自分が見たらどう思うんだろう。

仕事は少しずつこなせるようにもなっているけど進む方向性が違う、仕事をこなせるようになることを目的としてはいけない。それだけを求めてはいけない。そんな気がしてしまいました。

今の環境では普通の空気を吸って普通の空気を吐いてる。普通の空気とは違う提案を吐き出し、巻き込んで、新しいことをはじめる。追い込まれるような仕事をして自分というものの現実的な価値を知った今だからこそ絵空事に価値がある。そのためにはもっと自分に勢いをつける熱が必要だと思う。

自分の中でもとても抽象的で形にはなっていないですが、なんとなく感じている危機感。

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誰かのせいにする

ってことは要するに誰かの力を借りてるってことだと思います。
全部自分でやってたら人のせいにはしないからね。

自分と先輩とで仕事をやっているときに思うこと。
全部が全部先輩の言うことが正しいわけじゃなくて、自分のほうが正しいこともあって、でもそれをわかってもらえてないような時が結構ある。自分で想定を深めて概念を形成してきた領域に関しては特に。

そういうときには折れるしかないんだけど、でも自分の中にはフラストレーションみたいな、"ホントはもっといいものになるはずだったのに"的なものがもやもやと残ってストレスになったりして、それで今仕事するのがすごくいやになってる。
でも、経験的なもの(今まではこういうケースではこういうやり方だった)とか、そういった部分に関しては自分の中にナイから結局のところ全体として仕事を進めるためには頼らざるを得ない。

対立軸として存在するのは、レベルの高いところだと解決すべき問題の優先度の違いとか、あと逆に今までのやり方を踏襲しないほうがよりいい物を作れるんじゃないか、なんていう提案(新と旧の対決??)だったりなんだけど、くだらないところだとそもそものやり方の好き嫌いとか名前の付け方(この辺もある意味では経験なのかな)が気に入らないとかそういったものまであって、一つ一つ話し合いとか説明とかしていくだけの時間的な猶予もない。

そもそも名前の付け方の好き嫌いなんて埋められるものでもないし。なんとなく気に入らないんだよねぇ、みたいな話になったらどうしようもないし。
自分の思ってる最高のものを実現したい、って思うんだけど、でもこれって見方変えたらわがままって言うのかなぁ。

結局は自分にとって100%の仕事をしたいと思うんだったら全部自分でできるようになるしかないのかなって思ってみたりもする。
もしくは、あらゆる点で自分を超えるだけの実力を持っている人に仕事を任せるか。

そのほかには自分自身に説明力がないのも一つの問題かなって思ったりもしてる。
説明力って言うか、納得してもらう力かな。人を動かす力だったりって言うのかもしれないけど。
たとえば名前の付け方は譲るけど、全体的な設計思想は譲らないとか、そういった一定の満足感を与えつつも重要なところは渡さない駆け引き。
割合でいえば5:5くらいでお互いの主張を取り入れてるけど、重要度でいえば9:1くらいに持っていけたら最高。
こうすれば100%ではないけど90%の仕事はできるってことでしょ。
こういうことができるようになるためには立場的には下だけど、目線的には上にいないとだめな気がする。俯瞰して操る。
全部自分でやるよりもこっち側の考え方でやるほうが大きな仕事ができるとは思うので、できればこっちで行きたいかな。

ただ、あくまで自分のほうが正しいと思ってるとこね。自分が間違ってるって思ってるところは早々に譲る。その方が良いものできるから。

何が書きたいのかわかんなくなってきたけど、直近で考えてることでした。

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